社会的距離

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最も密集している場所を考えてみると、ラグビーの「スクラム」ではないかなと思うのです。私が学んだ高校の体操の時間、冬場には、そのラグビーをやりました。スクラムを組んで、肩や頭や耳の密着度は、半端ではないのです。男同士で、あんなに密着が許されている競技は、他にありません。

汗臭い男の匂いを放つスクラムの中にいると、変な趣味のない私でも、一体感や仲間意識の強さに、圧倒されるほどいい気分になったのを思い出します。自分のチームの確保するボールを、一歩でも前に進めるための闘いは、今思い出すだけでも、『またやってみたい!』と思わせられ、醍醐味にあふれていたものでした。

バスケットボール、ハンドボール、テニスボールをやってきましたが、授業でのラグビーをした経験が、なんとも一番懐かしさを感じさせられています。

「社会的距離(なんですか、最近のコロナ禍の中で英語では"ソシアル・ディスタンス“ と言ってますが)」という言葉が、社会学の中にあります。親子の距離、友人間の距離、師弟の距離、恋人の距離、夫婦の距離などがあって、それぞれの密着度が違います。” タッチング/touching “ と言う学問用語があって、他者の入り込めない距離があるのです。

私には、母のおんぶや抱っこ、父の抱きすくめ、兄からのパンチ、友人との肩組み、好きになった女の子のそばに寄りたい願望、恋人願望、そして結婚関係、様々な人との距離があって、自分とまわりにいる人たちとの距離を測りながら生きてきています。

サンパウロの地下鉄の駅近で、日本人のお年寄りが、寄り集まっていた光景が、印象的だったのです。しかも、無言で、ある一定の距離の中に集団化していたのです。異様には感じませんでしたが、同国人、同郷人の間の〈その距離〉が興味深かったのです。寂しさを埋め合わせる様な接近が見られたからです。

中国でのしばらくの生活の中でも、父子、母子、戦友、友人の間の「肩組み」の中に、その社会的距離を、私はよく見かけたのです。自分では、もうしなくなった「肩組み」を、ちょくちょく街中で、見かけたのです。中国での男性間の心理的な、また肉体的な密着度の高い関係で、一番近いものは何かというと、《戦友間》なのだそうです。軍隊に行くことの多い国柄、国防に励んだ者同士の距離が、最も近いのだと聞きました。

中国で、国語教師をしている間、一度だけですが、女子学生から、『先生ハグしてください!』と言われたことがありました。ちょっと驚きましたが、けっこう積極的な国民性も分かっていましたから、躊躇なく、肩を合わせるハグを、みんなの見守る中で交わしたのです。彼女は、『ありがとうございました!』と言って教室から出て行きました。その年度の最終授業の後でした。私の授業への感謝もあったのでしょうか。

〈社会的な距離を取る様に〉との現代の社会現象の中で、人間関係の希薄化が、ちょっと心配になっています。必要以上の距離の中に、人への拒否、それによる孤独化の傾向が、少々心配です。接近拒否、接近躊躇は、人間本来の性向に反するからです。群れようとする集団化は、基本的な願望です。所属と接近の要求が、誰にでもあるからです。

ここの川の鯉は、群れています。それに引き換え、白鷺は孤高を楽しんでいる様に見えても、時々、目の前の屋根に群れて止まっているのを見受けます。生物の基本的な願望が阻止されない様に、父や母とのこと、兄や弟との喧嘩、友だちとの取っ組み合い、知人との握手、初めての口づけなど、遠い日が昨日の様に思い出されます。

(「音楽の手帳」からスクラムです)

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